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あちらこちら

日下部司一

2005年11月15日(火)〜12月17日(土)
12:00〜19:00(日曜・月曜休廊・土曜日17:00まで)

20051115.jpg

あちら‐こちら【彼方此方】
あちらとこちら。あちこち。「—に灯が見える」
あべこべであるさま。逆。狂、木六駄「それは—ぢや」
[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]

 パソコンで画像をいじるようになって、急速に写真の記録性が失われたように思う。
 光学的な原理で感光材に焼き付けられた像がその後の加工で形を変える。おそらくそ れは加工者のイメージに近づけるための止むに止まれぬ欲求のなせる技であるのだが、 そのことによって写真の持つ記録性の信用が失われたのだ。
  かつて写真の創世期には、その冷静な記録性、つまり記録方法としての恣意性の無 さが写実絵画の存在を揺るがしたというが、今日では写真も絵画の一手法へと吸収合 併されてしまった感じさえする。
 もっとも、合成写真や演出、特撮などによる技法はアナログレベルで古くから行わ れてきたし、写真の記録性の喪失をパソコンのせいだと咎めるわけにもいかない。た だ、見え透いた嘘ならいざ知らず、巧妙な嘘が頻繁につかれるようになると、羊飼い 少年の寓話よろしく村人は写真への信用を失ってしまった、ということだろう。
 で、写真の魅力は、だから無くなったのか、といえばそうではない。嘘をついても なお魅力を持っている。
 たくさんの魅力があるだろうが、私の場合はその魅力の一つに支持体の持つ物質性 をあげたい。印画紙、感光乳剤の質感、色、肌触りなどである。あるいは印刷やコピー 紙の上の写真のあり方の相違についてである。抹消的でマニアックな視点と言われる かもしれないが、モニターで見る写真と印画紙で見る写真は明らかに違う。
 もう一つは鑑賞時の空間性である。つまり、写真の大きさやそれを見る場所の問題 のことだ。
 一枚一枚手にとって見る小さな写真とパネル張りした大きな写真は見え方がちがう。 同じパネル張り写真も画廊や美術館と自宅の壁では内容まで変わってしまう。
 これは、そこになにが写っているかではなく、なにがどのようにそこにあるか、と いう写真の持つもう一つの側面の存在を端的に表しているように思う。
 たぶん私の関心事は、画像と物質がうまい関係を持ちながらどのようにそこにある か、ということが一番にくるようだ。誤解を恐れながら言えば、何が写っているのか は、とりあえずたいした問題ではないとさえ思っている。
 「あちらこちら」と言うタイトルは、散在する無関係なものの有り様の中に、ある 秩序のようなものがぼんやり現れることを願ってつけた。無関係に散在すること・・・ これは、日常生活の有り様と似ている。

 

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